昭和42年12月25日 夜の御理解
有難いと思い、勿体無いと思う、そういう心がいよいよ有難いものを勿体無いものを生んでいきます。ように不平不足であれば、やはりそれは不平不足を言わねばならないような種を蒔いていく道理です。いよいよ喜ばせてもらい、いよいよ勿体無い毎日を過ごさせてもらおうというところにいろいろ信心を、話を聞くのが能ではない、わが心でも練りだせと仰るのですから、様々な事に当たりながらそれをそれを改め、それを練りあっていくところのおかげを頂かなければならんと思う。
今日は二回目の信心研修会でございました。共例殿にいっぱい皆さんが集まりましたから、まあ次々とまあ半分ぐらいの方達が発表いたしました。時間がございませんもんですから。その中に本当に秋永先生が最後に申しておりましたが、皆さんがいつの間にこういう風に信心が育っていかれておるかと本当感心いたしますというように、まあ素晴らしい銘々が十分か十五分ずつでございますけれども発表いたしております。
その中にこういう発表をしておる人がありました。これは久留米の佐田さんという方です。この23日のお月次祭にお話を頂いておって感じた事は、もういよいよ今年もあますところ八日間、23日ですからね、先生が仰るように本気で一つ、本気で前夜祭にはお礼が言え、または様々な一年中のお詫びが聞き届けて頂けたと、本当神様から聞き届けたぞと言うて下さる思いがです、その実感の頂けるような前夜祭を頂きたい。そして新たな年を迎えたいとこう思うたとこう言う。ですから早速明くる日から朝の御祈念にお参りする事をまあご主人に話されたんですけれども、ご主人はできなかった。そこで、まあこれは人なら人ではない、自分が(せいさ?)して頂くべきだと思うて、まあおかげを頂いて、その翌日、そして昨日というふうにおかげを頂かれておる。そころがその、そんな時間じゃないはずなのに、一番の吉井行きが出た後というふうに感じたもんですから、また家にいっぺん帰って、ご主人の車で送ってもらおうと思うた。ご主人を一緒にやっぱり連れて行こうと思うた。ところがもうすでに自動車がなかったとこういう。それにまたその、相当ありますところ道なりを歩いて先生参りましたと。すぐそこで、三十分ぐらい待っておる間にもう寒いの、冷たいの、本当に寒かった。バスに乗らせていただいたらよかろう思うたら、バスも誰も一人も乗ってない中に自分が一人乗り込んでいっておる。( ? )つま先から頭の先まで冷たさを感ずるような冷たさであったとこう言う。神様がこんなにして修行させて下さるなと思うたら有難うなった。けれども実際は、その有難いよりももっと冷たい寒いの方が強かったとこういうわけなんです。皆さんそういうような体験をなさる事でございますでしょう。大体難儀というものは、その難儀の中にご真意を悟らせてもらう。様々な冷たい熱いがございますよね。本当にじゅつない思いをする事がございますよ。けれども分からせてもらえば分からせてもらうほど、神様の心が分かれば分かるほど、神様がこういう風にこんなにして育てて下さると分かってくる。それがそういう、また場合にはめぐりのお取り払いとして有難いだろう修行させて下さると思うて有難いだろう。けれども、有難いけれども、その直面しておるその問題というものは、直面しておるその寒さ冷たさというものはそれ以上であったというわけである。皆さんそういう事がございましょう。本当に思えば、なるほどそう分からせてもらえば有難い。けれどもやっぱりじゅつない事はじゅつない、苦しい事は苦しいのである。
またある方が発表しておりました。もう私の方には本当に、私の息子の嫁は、一人息子さんですが、本当に、娘さんはたくさんおりますけれども、一人息子なんです。それが本当にあの自分の娘よりも何よりも、そのうちの嫁が素晴らしいという事です。本当に、まあいうならば世界一の嫁だとこう言う。なぜ世界一の嫁かというとですね、うちの息子でなからなければ、息子にはこの嫁でなからなきゃでけんのですから、他にざらにあるはずがない。私の○○という家にはこの嫁でなからなければ立ち行かんほどに神様がお見立てくださっとるのであるから、やはり世界一である。そういう意味で私共の嫁は世界一だ。ところがそれに引き換えて、こういう嫁を頂いておるにもかかわらず、息子はそうではないと。もう嫁にならいくら金を貸したってもいい。けれども息子に金を渡すと、渡しゃあ渡しただーんと使うてしまう。もうあれやらこれやら、仕事のし振りの事から何から、まあ嫁御には敵わん。と、うちの息子に本当にこげな息子来てもろうてから、本当に嫁にいつもすみませんすみませんというような気持ちであった。ところがすぐ近所に遠い親戚にあたります八十いくつになるおばあさんが、非常に出歩き好きのおばあさんがおりましてね、毎日そのあっちこっちまわる。もう(そんと?)はその、その家にやってくるわけなんですね。それで朝から、朝から来てから夕方までいつもおられる。でいつもうちから送っていかなきゃならん。だからきょうだん、も向こうに子供達も何人、孫達がおることですから、電話ばかけちから迎えによこさんの、毎日うちから送っていってやってからっちいうてから言いよった。ちょうどそこんところへその息子さんが帰ってきた。そげん電話ばかける事がいるの、私が送ってやるちゅうてその、八十いくつになるおばあさんをもうそれこそ抱くようにしてですね、送っていきよるのを見てから、お母さんが思うたんです。はあ、ほんにうちの息子には、とても私どんが思うとる汚いごと、こげなん親切なこういう素晴らしいところがあったと思うたらね、もう途端に息子がその、尊く見え出したとこういうのである。そしてその自分で思うのですね、親先生がいつも言われるように、うちの息子は言う事聞かん、うちの息子は悪い、うちの嫁はどうもとこう言うておるから嫁がそうであり息子がそうなんだと。本当にうちの嫁は世界一というて、うちでは実際私が思うてもおりゃあ言うておるから、いよいよ世界一、的、ものをですね、嫁が発揮してくれるわけなんです。息子のほうになると、もうこの人ばかりは本当に困った人じゃあるというふうに思うから、いつも困った事がある。私が一番初めに申しますように、有難い事じゃ勿体無い事じゃとこう言うていきゃあ、有難い勿体無いが頂けるのだけれども、不平を言う不足を言う、どうしてこういう息子な事じゃろうかと思うからこげなことがやはり生まれていくわけなんです。もう私は先生、その事を思ってです、先生ちゃあ皆さんですね、確かに私共の生活の中にはそういう有難いと片一方じゃあ思いよるけれども、片一方には不平不足を思い言うたりしておる事がございます。そういう、私はつまらんと思うておった息子の中にですね、そういう親切な、私も持たんような親切なものを持っておるんだと思うたら、尊く見え出したとこういう。心なしか、本当に息子がだんだん有難くなっていくものを感じる。(一介のお宝?)というわけじゃないけれども、そういう素晴らしいなら素晴らしい、良いなら良いところをです、見ていって、本当にうちの息子には人の真似のできんこういう素晴らしいところがあるところを見て、有難い有難いと言うていきゃあいいのだけれど、それ以外のところを見るから心が暗くなるのだと。
私はそういう話をですね、聞かせて頂きながら、本当にその、その良いところばっかり見て悪いところが見えんようになったらどんなによかろうかと思う。佐田さんの奥さんが発表されるようにです、確かに私共がですね、確かにこれが修行だと思やあ有難いとも思う、勿体無いとも思う。この難儀によっていよいよめぐりのお取り払いを下さっておると思うと、めぐりのお取り払いを頂いておる事が有難いんだけれども、有難いよりももっと苦しい事の方が強いんだと。修行させて頂いておる事が明るいのである。けれども、苦しい事がやっぱり苦労なのである。私はそんな事を思わせて頂いてから、そうだなあ、私達でもそんな事がある。けれどもあれはまた、本当にその有難さが募ってまいりますとですね、その、苦しい、けれどもその有難いがです、もう苦しいものを確かに感じんようになるんですね。本当これがだんだん有難いものが勿体無いものが募ってまいりますと、それだけ、そこまでいくのが本当なんですけれども、やはりめぐりのお取り払いであるとか、または修行させて頂いておる、こちらが修行しようと思えば神様は本当に修行させて下さると思うたら有難い。けれどもその、有難いよりも冷たい寒いの方がもっと強かったというような事になってくるのはどういう事であろうかと。そしたらですね、私の御神眼に、真っ暗いところをですね、提灯を持って歩いておる姿を頂くんです。ははあなるほど、そうだなあと私は思うんです。真っ暗いなら、真っ暗い、いわばその夜道をですね、その、有難いというものに気付かせてもらう、息子の中にそういう尊いものを見出して発見したという事は、それはちょうど提灯を点けたようなようなもんです。その冷たい寒い中に、はあ神様が、こちらが本気で修行させて頂こうと思うたら神様がこうして修行させて下さるんだ、有難い事だなあと思ったのは足元にもう提灯が灯ったのと同じ事でございます。ところがその提灯は持っておるから道は間違えません。歩いていくのに不自由は致しませんけれども、ふっとこうおかへ転じますと、やっぱり外は真の闇が真っ暗い海だという事なんです。だからやっぱり真っ暗いものは真っ暗いと感じるのが当たり前という事になる。
皆さん、ちょうど五時に終わられました。それから、みんなでここで御礼の御祈念をさせて頂きます時に頂きました事でございますけれどもね、人間は万物の霊長であるからとこう仰るが、本当に万物の霊長らしい霊長、本当の万物の霊長としての値打ちをね、いよいよ作っていく事が信心だ。例えば牛とか馬とかね、そういう他の動物には、良心というものがない。また反省する、いわゆるその、向上しようという向上心もない。さすがに、確かに向上するものは、向上心を持っておるものは人間なんだ。そこが違う。ですからどうでもまあ向上心を燃やさなきゃいけん。自分の良心に問うてみて、いつも反省していかなければいけない。そこでその、与えられるもの、馬には馬の食べ物があり、鶏には鶏の餌がある。ヘビならヘビのような冷血動物にでもちゃんとその、食物が与えられておる。いうなら、人間には人間の食べ物が与えられておる。ですから私達もやっぱりご飯を食べたり、パンを食べたりしておるんだというのではなくてですね、私共がその求めておるもの、それがこの与えられる。ところが牛やら馬やらが求めておるようなものを私共が求めておるような事はなかろうか。ヘビやらカエルやら冷血動物と言われるようなものが求めておるようなものを求めておる自分じゃなかろうか。いうなら汚いものを求めておる。汚れたものを求めておる。そんなものは食べてはいけないものを求めておる。してみると、他の動物と大差ないじゃないか。他の動物には盆もなからなければ正月もない。あるのは人間だけだ。そこに人間の業がある。休まなければ、それこそ、面白かったり楽しかったりする事があったり致しますとね、もう今日は盆と正月が一緒に来たごたるふうにして喜ぶ。盆と正月というものがなからなければ人間はその、立ち行かんごと思うとる。私共には本当言うたら動物にですらそれであるから、盆もいらない正月もいらないという境地が開けて、これはもう私の現在の信心の最高のものだと思うんですから、皆さんひょっとするとお分かりにならないかもしれません。そういやあ、あの三代金光様のご時代に御本部参拝いたしますと、私はある時御大祭にお参りさせてもらった。そりゃあもう祭場から私どもが御広前にやってくる時にはもうすでに御結界に奉仕になっておられた。もうさっきから、もうああいう大変な大祭に御仕えになった金光様とも思えない、もういつものことと変わらない。とこう、あの、顔を上げさせて頂きますと、金光様のちょうど無精ひげがこういっぱいこうお生えになっておられる。明日は御大祭じゃけんってひげなっとん剃っとんかといったような事はおありにならない、いつも同じ。盆もなからなければ正月もない。そこに金光様のお心の中にいつも有難い勿体無いという心が、そういうものがいつも与えられなさったわけなんです。人間は万物の霊長であるから万物の霊長としての値打ちをです、私共が頂いていったらです、そういう有難い勿体無いものが与えられる事になっておる。牛やら馬やらには全く、その、有難いとか勿体無いとかというものは与えられないですよ。
ところがなら、人間の誰にでも、万物の霊長であるから与えられるかというと、いやそうではない。それこそ動物に与えられるようなものしか、心の中にですよ、与えられて、いわゆる心の糧とこう言うが、そういうものしか与えられておらない私共ではないかとこう思わせてもらうんです。
金光様には、それこそ私共が思うように、御大祭をああして何回も続けておる、お続けになるから、大変なお疲れであろう。そんな肉体をお持ちになっておられるからでもあろうけれども、本当言うたら一つもお疲れになってはいないというご様子がです、あの御大祭を御仕えになられてある、その後に拝ませて頂く金光様はそれを感じさせられなかったですものね。同時に金光様には、盆もなからなければ正月もない。例えば御大祭というのに、いわばまだ無精ひげがこう生えておられる。( ? )した事ですけど、本当ひげぐらいお剃りになられにゃいいのにと、まあ見方ではそうかもしれませんけれども、金光様のお心の中には、大祭だから平日だからと変わりがないという事なんです。素晴らしい境地を開いておいでられたお方だなと思うんです、いよいよ。私今朝の、今日皆さんが最後の御祈念をさせて頂く時にその事を頂きまして、私は分からんなりに、ただ今ね、こういう、漠然とお話をさせて頂いた。そしてそれを御理解付けると皆さんに今聞いて頂いておるような事になってくるのです。人間万物の霊長その最高のものが与えられれるおかげを頂かせてもらう時に、神様もまたそれをもうこよなく喜んで下さるごたる、もちろんですけれど。霊長としての値打ちを本当に、この、持続し続けていけれる。またそれを求め続けていく。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合うとこう仰る。その道理がもう教えられんでも分かってくる。霊長という、私は霊徳が発揮されてくるようになると。それには私共がどのような信心をさせて頂いたら良いかというと、今日私二組、二人の人の例をもってお話を申しましたようにです、そういうものの見方、考え方、そういう修行、そういう修行させて頂く中にもです、どうしてこういう有難い修行させて頂きながら、やっぱりつらい寒いはその有難いよりももっと大きいものを感ずる時にです、私共は足元のその提灯そのものにより有難く御礼を申させて頂いてです、それが募ってまいりますと、周囲の暗い事も忘れてしまうような有難さが心の中に広がっていく。そういう私は心の光というか、どんなに真っ暗であっても絶対に不自由せんですむ信心に道におかげを頂いておるという事をです、いよいよ有難いと思うて、そこんところをです、焦点を置いて、なるほど有難いと言えば勿体無いと思うておれば、有難い勿体無い事が頂ける。不平に思い不足に思い、本当にうちの息子はどうしたとこう言やあ、本当にこの人ばっかりはどうした事じゃろうかというふうに息子がなる。うちの嫁は世界一の嫁だと言やあ本当にいよいよ世界一の嫁に、を、振り、そういう良い嫁さん振りを発揮してくれるというようなところからです、私共がいよいよ万物の霊長としての値打ちを作っていかなければならない。そして結果においてもですね、盆もなからなければ正月もないですむようなです、大晦日だから、イライラする、今日なんかは男の方が非常に少なかった。もうやっぱ押し詰まっておりますから、バタバタ、それこそ良か正月を迎えるために、年末のそれにも間に合うように、まあいろいろ、あっちへ走りこっちへ走り、何となく心ぜわしい毎日を送っておるわけなんです。そういう事のない、心ぜわしい事のない、大晦日が来うが正月が来うが、いつも平日の通りというような心の状態を開かせて頂く、そういう目指しをですね、持ってお互い信心を進めていかなければいけないと思うですね。
どうぞ。